=高木流柔術、技の流れ=

初代高木馬之輔重貞は、高木流体術に研鑽を重ね、体術に腰回りの術を加え、さらに研鑽の末、陰陽の術を開眼して初めて本體楊心高木流(注1)と称した。
楊武館所有の巻物等古文書によると、高木馬之輔重貞から、九代目・大国武右衛門英信までは、術技の研鑽は行われたが、型には大きな変化はなかったと推察される。
十一代目・大国鎌治英俊は高木流を深く研鑽し、土佐藩の清水善平重勝に伝えるなど、広く弘宣に勤めた。
その理由は、渋川一流の森本邦生先生が研究発表された土佐藩の高木流体術拳法と、角野高木流柔術(十五代目角野八平太正義による)目録が全く同一であったことによります。
 高木流柔術は九代目・大国武右衛門英信から十一代目・大国鎌治英俊にかけて術技が研鑽(注2)されて、目録・技の数も増え大きく変化して現在に伝承されています。



(注1)本體楊心は高木流の巻物に書く場合に本體楊心流と明記するが、この本體楊心流には技の「型」は存在しない。

(注2)術技が研鑽されても、古流では型が変わることは一切ありません。
 伝承されてきている「型」が変化することで、伝統的な意味が無くなり歴史的価値を失うからです。これは古典的な技・芸術全てにあてはまると思います。
 術技の研鑽とは、体の動かし方や骨格筋の制御、細かい手・指の操作等を工夫し、技が簡単に掛かるようにすることで明治以降において元の「型」がなく なったものは、古武術ではなく現代武術といえます。